HOME > 官僚主義とは>本会の沿革

理不尽への疑問から・・・

1967年末、和泉市長選挙がたたかわれました。その際、革新側から準備していた統一候補の擁立を共産党組織の責任者辻尾晃が自らの誤りによって失敗させました。しかも、当時、最も奮闘していた下部党員の峯たちに「党の組織原則である民主集中制に反した」と問題をすりかえて責任を負わせました。あらぬ責任を被せられた峯たちは、上級に質問、意見を上げて事実を明らかにするよう要請しましたが、党の一部幹部は「下級は上級にしたがう」という党規約を逆用して当時の幹部会員まで一緒になって組織ぐるみでねじふせました。「もっとも民主的であるはずの党内でなぜ、このような理不尽なことがまかり通るのだろう」、この疑問から峯たちは、先輩である赤松清和氏に顧問を依頼して党内で「官僚主義」の学習会を持ちました。1974年頃のことです。
党内では、この少し前の時期からそれまで倍々ゲームと呼ばれる増加を展開していた党勢拡大の面でも、選挙の得票の面でも、次第にかげりがみられるようになりました。官僚主義学習会では「党内の官僚主義こそがいのち取りになる。資本主義権力に対するたたかいと結合して党内の官僚主義を克服することが必要である」(結合の理論)という一定の見解を持つに至りました。ソビエト連邦をはじめ、東欧諸国の社会主義体制が崩壊する十数年前のことです。
1980年のダブル選挙の際には、私たちの学習会が所属する党組織の勢力拡大は大阪でも屈指の成果をあげました。学習会の方針は、「官僚主義克服のたたかいと対権力闘争を結合する」いわゆる結合の理論に基づいたものです。具体的には、「選挙の票を依頼するときに、共産党のよい点だけを宣伝するのではなく、有権者から出される共産党に対する疑問や党のマイナス面の指摘も組織に結集し、党内で検討し、自分たちだけで改められるものは改め、上級にあげるべきものは上級にあげて対策をたて、その返事を必ず相手に報告する」というものでした。
1980年9月、大阪府高石市の中学校で校内暴力に苦しんだ中1の生徒が自ら命を絶ちました。泉北教組では官僚主義学習会が中心になって「すべてを明らかに」の方針で教組あげて学校の非行・荒廃をあらためるために取り組む決定をしました。しかし、この取り組みは教育委員会・校長等の権力からの大きな圧力と、共産党の官僚主義者からの攻撃をはねかえすことができず、尻すぼみに終わらせてしまいました。このころ、学習会では、ポーランドの連帯の運動にも注目していました。「連帯の運動が一定の勢力を得たとしても、組織の中で官僚主義克服の課題を掲げなければ、やがて官僚主義に陥り、停滞する恐れがある」ことなどが話し合われました。
1983年9月、日本共産党は官僚主義学習会への参加者15名を「反党分派分子」として除名しました。つづいて、官僚主義学習会に参加しなかった党員でも、この処分に疑問を持つ者を権利停止にして査問し、除名処分にしました。上級の官僚主義を問題にすることは、共産党にとってのタブーです。
1984年3月、泉北教組の役員選挙に対して共産党が介入し、「泉北教組執行部は、将来反共になるおそれがある」として、それまでの執行部全員に対立する官僚主義者側の候補を立てて前代未聞の激しい選挙戦を展開しました。選挙の結果、官僚主義学習会メンバーを中心とする候補者が勝利して共産党の介入は失敗に終わりました。しかし、その後数年、共産党は役員選挙のたびに介入し、ついに1988年以後、泉北教組執行部は完全に官僚主義者側に牛耳られることになりました。これ以後、泉北教組は活動においても組織力においてもジリ貧状態になっていきました。
2000年3月、和泉市の小学校で「ぞうれっしゃよはしれ」の歌詞を音楽教科書の君が代の上に貼らせたとして、自民党議員が国会で問題視し、そのことで文部省(当時)から圧力をかけられた校長が一教師に暴力をふるうという事件が起こりました。官僚主義学習会としては泉北教組執行部にたたかうことを要請しましたが、執行部は取り上げようとはしませんでした。やむなく官僚主義学習会では、独自活動を行いましたが、不十分なものになってしまいました。
2002年2月、顧問の赤松清和氏が死去し、官僚主義学習会は大きな痛手を受けました。学習会では、それまでの活動を世に問うために出版物を計画し、2005年12月、『孤塁を守ったひと』(れんが書房新社)を発行しました。

Copyright (C) 官僚主義学習会.All Rights Reserved.